広島城について

広島城について

広島の始まりは『広島城』から…歴史をさかのぼって、広島の町の原点を知る。

広島の街の原点は『広島城』から

広島の街の原点―それは広島城にあるといっても過言ではありません。
今から約400年前の戦国時代末期に広島城が誕生して以来、広島の街は広島城の城下町として大いに栄えました。広島は近世城下町として発展した典型的な都市です。八丁堀、薬研堀、幟町、鉄砲町、紙屋町、袋町など、広島市中心部には城下町としてにぎわっていた頃の町名が今も数多く残されています。
今や世界のHIROSHIMAですが、その原点はまさに広島城の誕生に由来するといえます。

広島城は、大坂城や岡山城らと共に初期近世城郭の代表的なものです。江戸時代中期に書かれた「広島藩御覚書帖」によれば、広さ約90万平方メートルの広大な城内には5重と3重の大小天守群以下、日本中の城の中でも最多を誇る88基の櫓が建てられていたそうです。
毛利輝元によって創建された大天守は、昭和20年(1945)8月6日の原子爆弾の投下で倒壊するまで現存天守の中では岡山城天守に次ぐ古式を伝えるものでした。

芸州広島図

城地の選定と築城

毛利氏は、南北朝時代から郡山城(現広島県安芸高田市)を居城とする一領主でしたが、元就の代に中国地方の大半を支配する戦国大名に成長しました。後を継いだ孫の輝元は、豊臣秀吉の聚楽第、大坂城を見物し、城下町と一体化して政治・経済の中心地として機能する城郭の必要性を痛感しました。こうして瀬戸内海に面する太田川河口の三角州に城地を定め、天正17年(1589)4月15日鍬入式を行いました。
築城工事は穂井田元清(元就の子)、二宮就辰(輝元側近)を普請奉行として急ピッチで進められ、天正18年末には堀と城塁が一応完成し、翌年、輝元は入城を果たしました。

城地の選定と築城

慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、輝元に代わって安芸・備後2か国(現在の広島県域)の領主として福島正則が入城し、外堀や外郭の整備を進め、広島城を完成させました。また、広島城下を通るように西国街道(山陽道)を南下させたほか、出雲・石見街道を整備し、その沿道を中心に町人町の大幅な拡充を図りました。

しかし、洪水で破損した広島城の修築許可の不備をとがめられた正則は元和5年(1619)に芸備2か国を没収され、代わって和歌山から浅野長晟が安芸一国・備後半国の領主として広島城に入りました。以後、明治2年(1869)の版籍奉還までの250年間、浅野氏が12代にわたって広島城主を勤めました。

寛永年間広島城下図

明治以降の広島城

廃藩置県以後、城内には旧陸軍の施設が徐々に設けられ、建造物は次第になくなりました。

明治7年(1874)には、本丸、三の丸で出火し、本丸御殿なども焼失してしまいました。明治27年(1894)8月、日清戦争が始まると、同年 9月15日には、明治天皇と共に大本営(天皇の本営で戦争時の最高統帥機関)が広島城内に移り、10月15日には広島で臨時帝国議会が召集され、短期間ながら臨時首都として機能しました。旧来の姿を変えていく一方で、広島城の史跡としての価値も評価され、昭和6年(1931)1月には、天守閣が国宝保存法の国宝(旧国宝)に指定されました。
この当時、江戸時代から残っていた建物には、天守閣と東走櫓・裏御門の一部・中御門・表御門・二の丸の平櫓・多聞櫓・太鼓櫓などがありました。しかし、昭和20年(1945)8月6日の原子爆弾の投下で、広島城の天守閣は倒壊し、門や櫓は焼失するなど、城内の建造物はすべて壊滅しました。
現在の天守閣は、昭和33年(1958)に広島の復興を内外に伝えるために開催された広島復興大博覧会の一環として 戦前の広島城の写真 外観を復元して建造されたもので、現在、内部は武家文化を中心に紹介する歴史博物館になっています。
平成18年(2006)には、広島城は日本100名城(73番)にも選定されました。

「広島」という地名の由来

築城前の太田川河口の三角州は、五ケ村などと呼ばれていました。「広島」という地名の由来については、
(1) 自然の地形を表現する「広い島」という意味。
(2) 毛利氏の祖である大江広元の「広」と、城地選定の案内役をつとめた福島元長の「島」を合わせて「広島」と命名した。
(3) 築城以前から現地の人々が用いていた地名。

など諸説あり、はっきりしたことはわかっていません。

広島城の別名「鯉城(りじょう)」という名の由来

一説には、この付近一帯が己斐浦(こいのうら)にあたり、
己斐の音が鯉に通じることから「鯉城」と呼ばれるようになったともいわれています。

復元された二の丸

広島城の二の丸は出撃の拠点である馬出しの機能を持ち、本丸の正面を守る役割を果たしていました。
二の丸にあった建造物は、すべて原爆で焼失してしまいましたが、築城400周年・市制100周年を機に平成元年(1989)から平成6年(1994)にかけて、改修が行われ、二の丸の建造物も木造で復元されました。